等持院

等持院
photo by @wanko_haru
1341年に足利義満が建てた寺院。訪れる観光客が少ないため回遊式庭園がゆっくりと味わえるという密かに話題のスポット。庭を見ながら抹茶もいただけるので心落ち着く時間を過ごされてみては?

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等持院の基本情報


【 住所 】京都市北区等持院北町63


足利家の菩提寺・等持院は紅葉の名所

等持院は室町時代初期に足利尊氏によって創建された寺院です。

足利家の菩提寺として高い格式を持っており、創建当初から現在まで移転していません。

夢窓疎石(むそうそせき)作の美しい庭園も現存しています。

尊氏の墓所もあり、歴史ある寺院の観光スポットを紹介したいと思います。

場所:京都市北区等持院北町63
拝観時間:午前9時~午後5時
拝観日:無休 12月30日~1月3日までは午後3時まで
拝観料:大人500円 子供(小・中学生)300円
交通アクセス:京福電車等持院駅下車 徒歩約10分 京都市バス「立命館大学前」より徒歩10分

等持院の歴史

暦応4年(1341年)足利尊氏が「等持寺」の別院として創建しました。

開山者(初代住職)は天龍寺の初代住職でもある夢窓疎石です。

本寺となった等持寺とは、二条大路高倉の東南にあった尊氏の屋敷をいいます。

屋敷は二つの役割を持っていました。

一つは室町幕府の政庁の役割で、もう一つは禅宗寺院としての役割でした。

その為、屋敷は尊氏の住居として「二条高倉邸」といわれ、禅宗寺院としては「等持寺」といわれたのです。

尊氏の死後、別院等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称しました。

その後、室町幕府の歴代将軍は等持院で葬儀をあげるようになりました。

そのため本寺の方がさびれてしまい、また、応仁の乱によって本寺が消失したため、別院だった等持院が本寺になったのです。

足利尊氏について

元々、足利家は源氏の名門でした。

源頼朝のご先祖・義家の子孫が下野国足利(今の栃木県足利市)に移り住んだため、その地名を名字にしたのだそうです。

尊氏は嘉元3年(1305年)7月27日に足利貞氏の次男として生まれました。

元弘元年/元徳3年(1331年)、父・貞氏が死去し、尊氏が家督を継ぐことになりました。

足利氏の家督は一旦は兄の高義が継いでいたのですが、その兄は父より先に亡くなっていたのです。

その年に起きた元弘の乱では鎌倉幕府側として戦った尊氏でしたが、幕府に不満もあり、その後は、後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府を滅ぼすことに協力します。

ところが、後醍醐天皇が行った「建武の新政」は、公家や貴族だけを出世させる、尊氏の理想とはまったく違うものでした。

尊氏は手柄を立てた武士たちを出世させたかったのです。

政治に参加せず、京を去った尊氏を後醍醐天皇は新田義貞や楠木正成らに討つように命令したのです。

天皇側の反攻により一時は九州に都落ちしたものの、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧することに成功します。

さらに、光明天皇を擁立して征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開きました(北朝)。

後醍醐天皇は捕虜となったものの吉野に脱出し南朝を創始しました。

その後、南北朝時代は60年ほど続き、朝廷(天皇)は二つに分かれて争うようになりました。

足利尊氏はとてもカリスマ性のあるリーダーで、勇敢かつ人情深く、武士たちからは人気がありました。

室町幕府にも優秀な人材が集まったと言われています。

尊氏は正平13年/延文3年(1358年)4月30日、戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで亡くなってしまいました。享年54歳でした。

等持院の境内

方丈
方丈は本堂にあたる建物です。現在の方丈は、1616年に福島正則によって妙心寺の塔頭寺院である海福院から移築されました。

広縁は鴬張りで、歩くと美しい音がなります。方丈の前にある衝立の達磨絵はとてもインパクトがあるものです。

かつて天龍寺派管長であった関牧翁が禅宗の開祖である達磨を描いたといわれています。

方丈庭園
【東庭】方丈庭園は方丈と書院の間にあります。東庭と西庭に分かれており、東庭は草書体の心を象って作られた心字池を中心に作られています。室町時代に作られた庭の特徴がよく出ており、夢窓疎石が作庭したものと考えられています。心字池の周囲にはもみじなど、紅葉が美しい樹木が豊富です。

【西庭】西庭は、芙蓉(ふよう)を象ったといわれる芙蓉池を中心に作られています。衣笠山を借景とした池泉回遊式庭園で、平面的な東庭に比べて立体的に造られています。方丈・書院・茶室である清漣亭(せいれんてい)の3か所から見ることができます。書院では、西庭を眺めながら抹茶やほうじ茶をいただくこともでき、おすすめです。

霊光殿
方丈と廻廊で繋がる「霊光殿」には、歴代の足利将軍の木像14体が安置されています。

ただし、5代・義量と14代・義栄の像はありません。

また、明治の廃仏毀釈によって石清水八幡宮豊蔵坊から遷された「徳川家康木像」も祀られています。

この木像は家康が42歳の時に厄落としの為にわざわざ作らせたものです。

何故、移されたのか、その謂われについては不明とのことです。

足利尊氏の念持仏(私的に持ち歩いて拝んでいた仏像)と伝えられている利運地蔵尊(りうんじぞうそん)も安置されています。

他に伝弘大師の作とされている本尊の地蔵尊、達磨大師の像があります。

尊氏の姿を写したものには、この木像の他にも絵画などもあります。

一般的に知られているのは、学校教科書に掲載されているザンバラ髪の肖像です。

近年では、この絵画は尊氏ではないという説もあるようですが、自分の世代は今更違うと言われても・・・という気分です。

清漣亭(茶室)
清漣亭(せいれんてい)は、室町幕府の八代将軍足利義政(あしかがよしまさ)が尊氏没年百年忌の法要の時に建てた茶室です。

建立は1457年だったといいますが、現在の清漣亭は江戸時代に再建された入母屋造り、茅葺の屋根の建物です。

清漣亭の部屋は通常の茶室と異なり、床の一部が他の場所より一段高くなっている貴人床という造りとなっています。

高い場所に天皇や上流貴族など高貴な人が座り、庭や衣笠山の眺めを楽しんだと伝えられています。

また、西側には明治時代に増築された四畳半の間を持つ茶室が造られており、併せて見学可能です。

尊氏公墓宝篋印塔(たかうじこうぼほうきょういんとう)
足利尊氏の墓と伝わる約1.5mの宝篋印塔で、庭の片隅にひっそりと佇んでいます。

宝瓶には蓮花を押した文様があり、室町幕府を創設した人物にしては意外に小さく感じます。

足利尊氏は、あまり物欲や私利私欲がない人だったと言われます。

墓所が小さいのも、自分を誇示したり、見栄を張ったりすることがなかったからなのかもしれません。

逆賊としての尊氏

等持院は幕末になると、火災とは別の災難に合うことになります。

時は尊皇攘夷の風が吹き荒れていました。明治天皇は南朝側の天皇です。

建武の新政で、朝政を取り戻した後醍醐天皇を倒した尊氏は尊皇派の志士たちから逆賊と誹謗されます。

文久3年(1863年)2月22日の夜、尊皇派の志士は等持院から尊氏と 義詮・義満の木像の首を盗み出し、賀茂川の河原に晒したのです。

これは足利三代木像梟首事件と言われます。

京都守護職の松平容保は、この事件に激怒、犯人は捕らえられて、その後、浪士の取り締まりが強化されることになります。

現在、霊光殿に安置されている尊氏、義詮、義満の3体の像には、しっかりと首が付いています。

また、第2次大戦前には、商工大臣の中島久万吉が、尊氏のことを「足利尊氏は人間的にはすぐれた人物だ」と雑誌に書いたところ、国会で問題視されることになります。

野党から激しい追求にあい、彼は辞任せざるを得ない羽目になったのです。

尊氏を取り巻く環境は時を経ても厳しく、その菩提寺である等持院も「朝敵の寺」として肩身の狭い時期があったのです。

「朝敵の寺」とされた時期を経て、今では紅葉の綺麗な観光名所として、知る人ぞ知る穴場スポットです。

大きな通りに面しておらず、少し奥まった住宅街にあるため、紅葉のシーズンでも混雑せずに楽しむことができます。

何度となく訪れたい場所のひとつです。

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